Kiss me!



 サイトーが3日間の休暇をとっている。風邪をひいたための療養休暇だ。
 公安9課に風邪という病気を持ち込むのは、大概が娘から感染したトグサだ。
 心肺を義体化しているメンバーも多く、また体調を案じた荒巻や草薙の命令でトグサはすぐに療養休暇に入るので、9課に風邪が蔓延することは滅多にない。
 しかし、今回だけは事情が違った。
 連日にわたり対象の監視任務についていたサイトーは体力が低下していた。そこを風邪のウイルスにとりつかれてしまったらしい。
 もう一人の完全生体である荒巻に移す訳にもいかず、サイトーは誠に不本意ながら療養休暇をとることとなった。
 最初は渋っていたサイトーだったが、ベッドに横たわり、38.7℃を示す体温計の表示を見つめ、休んで良かったと思った。
 こんな体調のまま任務についたら、どんなミスをするか分からない。
 こうなってしまったら、一刻も早く治してしまうに限る。
 体温計をケースにしまうと、サイトーは布団に深く潜り込んで目を閉じた。



 玄関の扉が開く音に、サイトーは目を開けた。
 意識がぼうっとするのは寝起きのせいだけではないだろう。まだ熱が下がりきっていない証拠だ。
 すると途端にひどい咳に襲われた。
 生身であることに引け目を感じたことは一度もないが、こんな時ばかりは心肺を義体化している人間が少しだけ羨ましくなる。
「サイトー、大丈夫か?」
 寝室に姿を現したのはパズだった。体調を崩したサイトーをこの部屋まで引きずってきたのも彼だ。
 持っていたビニール袋を床に置くとベッドに近寄り、苦しげに身を丸めているサイトーの背をさする。
「………パズ」
 やっと咳が落ち着き、絞り出した声はひどく枯れている。
「ひどい声だな。無理に喉を使うな。電通で話せ」
≪………仕事は終わったのか?≫
「いや。お前の様子を見に寄っただけだ。飯を作ったら、例の対象の監視に行く」
≪…そうか…≫
 サイトーは熱っぽい息を深く吐き出した。
≪だったら早く行け。飯は自分で何とかする≫
「そう言って、お前何も食わないだろ。すきっ腹に薬を流し込んだら胃が荒れるぞ。俺の目の前できっちり食事をとれ」
≪おせっかいな奴だな≫
「お前に早く復帰してもらわないと大変なんだよ。復帰したトグサもまだ全快とはいかねぇし」
 そう言われてしまうと、サイトーは反論することはできない。
「消化のいいもん作るから、ちゃんと食って寝ろ」
≪分かった≫
 パズはサイトーの身体に布団をかけなおすと、食材入りのビニール袋を持って寝室を出て行った。



 パズは汗をかいたサイトーの寝巻きを剥ぎ取って雑巾がけし、洗濯した寝巻きを着せた上にどてらを被せて、でき上がったゴマ風味の卵粥を食べさせた。
 サイトーが粥をすすっている間にベッドのシーツを剥がして、寝巻きと一緒に全自動洗濯機に放り込む。
 サイトーが卵粥を完食したのを確認した後に薬を飲ませ、さっぱりとしたベッドに寝かしつけた。
≪まるで小うるさい母親みたいだな≫
「そう言うお前は手のかかる子供と同じだ」
 サイトーから手渡された体温計の表示を眺め、パズは顔をしかめた。
「熱が高いな」
≪今夜一晩寝てれば下がるだろ≫
 顔色が悪い以外は、サイトーの表情は普段とあまり変らない。
 こんな時ですら崩れないポーカーフェイスを少々忌々しくすら感じる。
「………サイトー」
≪何だ?≫
「キスさせろ」
 布団を半分被っているサイトーの目元が少し歪んだ。
≪風邪は移せば治るってベタなネタをやるつもりか?≫
「そんなところだ」
≪心肺を義体化してるお前に移る訳ねぇだろ≫
「俺にだって生身の部分は残ってる。移らないとは限らない」
≪阿呆。移るか≫
 万が一移ったとしても、サイトーの代わりにパズが倒れたのでは意味がない。
≪…なぁ、パズ。前々から思ってたんだが、何でお前はいつも命令形なんだ。たまには『して下さい』とか言えないのか≫
「お前が俺の言うことを聞かないからだ」
≪お前、女にも命令してるのか?≫
「女に命令したこともお願いしたこともない。俺はいつもお願いされる側で、そしていつもそれを叶えてやっている。少なくともお前よりは紳士だ」
 サイトーはパズから視線を外すと黙り込んでしまった。
 パズが布団に手をかけると、サイトーは慌てて布団の端を握り締めた。
≪待て!≫
「時間がない」
≪だったらとっとと行け!≫
「看病の礼をもらってない」
≪! …回復したら酒を奢ってやる≫
「俺は今すぐ欲しい」
≪無茶言うな!≫
「すぐに済む」
≪だから待てって!≫
 サイトーは布団の端を引き上げると、頭まですっぽりと被ってしまった。
≪………お願いしてくれたら、聞いてやらないこともない≫
「………そうか」
 パズはサイトーの手から布団をもぎ取ると、一気に捲り上げた。
 びっくりして目を丸くしているサイトーを眺め下ろし、ニヤリと微笑む。
「サイトー。『俺にキスして下さい』」
「………………………は?」
 パズの言葉を理解するまでに少々時間を要した。
「『させて下さい』だろ?」
「『して下さい』だ」
「………………………………」
「ちゃんとお願いしたぞ? お願いしたら聞いてくれるんだろ?」
 口元に浮かぶ厭らしい微笑はこの企みのためかと、サイトーは頭を抱えたくなった。
「………分かった。その代わりちゃんと風邪を持っていけよな」
「あぁ、いいよ。お前の風邪なら」
 サイトーは身をかがめたパズの襟元を掴むと、乱暴に引き寄せた。



「サイトー。風邪はもういいのか?」
「あぁ」
「すぐに治って良かったよ。移して悪かったな」
「気にするな」
 あれからサイトーの熱は下がり、風邪は嘘のように治ってしまった。
 もちろんと言うべきか、コーヒーを飲んでいるサイトーとトグサの隣りで煙草を吹かしているパズに、風邪をひいた様子はまったくない。
≪俺にキスして良かっただろ?≫
 送られてきた暗号通信に、サイトーは思わずコーヒーを吹き出しそうになり、咽て咳き込む。
「サイトー。やっぱり風邪治ってないんじゃないか?」
「だ…大丈夫だ」
 振り返ると、元凶は煙草の吸殻だけを残して煙のように消えていた。



Fin



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